LOGINアルクスはルシティア王国の南部に位置する田舎町だ。温暖な気候を活かした田園地帯が広がっており、特産品のワインは国内だけでなく、近隣の諸外国からも高い評価を受けている。
リスル・フレンツァは、この町のとある葡萄農家の娘である。齢十七になる彼女は、葡萄を育てながら、両親と体の弱い六つ下の弟と暮らしていた。 リスルは額にうっすらと浮かんだ汗を手の甲で拭いながら、朝の空を見上げる。夏は終わりかけているが、まだ早い時間だというのに暑さの片鱗が顔を覗かせていた。 薄汚れた麦わら帽子を被った恰幅の良い中年の男――リスルの父親のラルゴは娘の姿を認めると、おーいと声を上げる。 「リスル、今日は天気はどうだー?」 「大丈夫、今日も晴れそうよ」 リスルは仕事の邪魔にならないようにうなじで結わえた茶色の髪を揺らして振り返ると、ラルゴへと叫び返す。 ゆっくりと薄雲が流れていく空にはどこまでも青色が広がっている。葡萄畑を吹き過ぎていく風からは湿気を感じるが、このくらいなら雨が降ることはないと直感が告げていた。 リスルは物心ついたころからこういったことが得意だった。誰に習ったわけでもなく、本能的に天気を言い当てることができた。それどころか、水のありかを当てること、天変地異をいち早く察知することすら可能だった。他人よりも勘が鋭いのか、たまに人ならざる自然の声を聞くこともあったが、稀に動物じみた勘を持つ者が生まれるという近くの山岳地帯の少数民族から嫁いできた母親のアリエは血筋的なものではないかと言う。少々大らかすぎる父親のラルゴは何にせよ便利なんだからいいんじゃないかと娘の特技を極めて楽天的に捉えていた。自然を相手にする葡萄農家という家業においてリスルの特技が非常に役立つものであることは事実だった。 リスルは籐の籠を小脇に抱えて畑へと出た。空を覆い隠すように広がった枝々から、袋掛けの紙越しに果実がその深い赤紫色を覗かせていた。 リスルは頭上から垂れ下がる果実の具合を一つ一つ確認していく。実り方や外皮の色や張り、果粉(かふん)の付き具合など確認することは色々ある。 リスルはある房に目を止める。とても深い色の果粒(かりゆう)の表面には白く粉っぽいものが付着し、どれも張りがいい。花軸(かじく)に連なる赤紫色の果房(かぼう)は互いに押し合うようにしてぎっしりと詰まっていた。 リスルは夏物のさらりとした肌触りのチュニックワンピースの上に重ねた、作業用のエプロンのポケットから剪定用の鋏を取り出した。背伸びをし、実に触らないように気をつけながら、指先で穂軸(すいじく)を掴むと、もう一方の手に持った鋏で枝から果房を切り離した。収穫した葡萄は持ってきた籠へと移す。 リスルが同様の作業を繰り返し、持ってきた籠がいっぱいになるころにはうっすらと心地よい疲労と汗が滲んでいた。一仕事終え、ずっしりと重い籠を抱えると、彼女は家へと足を向けた。 家へ戻ると、リスルは母親のアリエと弟のカロンに出迎えられた。 「お姉ちゃん、これ。お疲れさま」 彼女は蜂蜜色の髪の弟に並々と濃い赤紫色の液体の入ったグラスを手渡された。グラスの中身は、よく冷えたブドウジュースだった。契約しているワイナリーには卸せないが、自家消費する分には問題ないため、こうやって絞ってジュースにしたものがフレンツァ家には大量にある。 リスルはそこはかとない親父臭さを漂わせながら、腰に手を当ててグラスの中身を一気に飲み干した。濃厚で華やかな香りが鼻を抜けていく。グラスを食卓の隅に置き、あらかじめ用意しておいたタオルで汗を拭う。ふわふわとした布地からは微かに石鹸が香っている。 そういえば、と彼女はカロンに視線をやりながら、 「カロン、寝てなくていいの? 昨夜はまだ熱があったでしょう?」 カロンは姉と同じ色の瞳で彼女を見上げながら、 「今日は微熱くらいだから、大人しくしてるなら少しくらい起きてもいいって父さんが」 「……母さんは何て?」 リスルが半眼でそう問うと、カロンはすっと明後日の方向へ視線を逸らした。リスルは溜息を吐く。 カロンはよく体調を崩す。現に今も、夏風邪を拾ってしまったのか、三日前から熱で寝込んでいたところからようやく快方に向かい始めたところだった。 カロンはようやく十歳を少し超えたばかりだ。本来ならまだ遊びたい年頃であり、一日中ベッドで寝ているのが退屈だということくらいはわかっている。きっと、変化も刺激もない生活はリスルの想像よりも辛い。しかし、少し回復してきたからといって気を抜くと、なぜか前よりも悪化させてしまうのが常だった。 「カロン? まだ寝ていないと駄目じゃないの」 リスルとカロンの背後からおっとりとした柔らかな声が投げかけられた。リスルとよく似た色の髪を一つに編んで肩に流した優しげでどこかたおやかさを感じさせる中年の女――母親のアリエがそこに立っていた。後でお父さんにはお説教をしないと、と呟いているその顔はにこにこと微笑んでいたが、二人の子供たちと同じ色の双眸には圧倒されるような剣呑さがちらちらと見え隠れしていた。あーあと思いながら、リスルはアリエに有無を言わさずベッドに強制連行されていくカロンの姿を見送った。毎度のことだというのに、父といい、弟といい、何故か全く学習する気配がない。 朝の仕事も一段落ついたので、出かける準備をするべくリスルは履いていた作業用の汚れた長靴から足を引き抜いた。底がぺたんとしていて歩きやすいストラップシューズへと履き替え、足首のベルトを留める。淡いベージュが軽やかで、近づきつつある秋を感じさせる。 家の外から、アリエに捕まったのか、ラルゴが何事か小言を言われているのが聞こえてきた。この後、ラルゴと契約先のワイナリーに収穫物を卸しに行く予定だが、この様子では出かけるまでもう少し時間がありそうだった。 近所とはいえどうせ出かけるのなら、とリスルは二階にある自分の部屋から革紐と靴の色に合わせたリボンを一本ずつ持ってくる。作業の邪魔にならないようにとぞんざいに結い上げていた髪をほどくと手櫛でさっと梳かしていく。リスルは頭の両サイドの髪を手に取ると捻り、先ほどまで髪を結わえていた紐で固定する。結び目の隙間に指を挟み入れ、ベージュのリボンを通すと、髪とリボンを三つ編みにしていき、先端をもう一本の紐で縛る。先端の結び目の上に余ったリボンを巻き付け、仕上げに全体を少し解していく。背に流したフィッシュボーンの出来具合に満足するとリスルは一人で満足げに頷いた。こういったちょっとしたお洒落が、たまにできる日々の隙間時間における年頃の娘らしいささやかな楽しみだった。 「おう、リスル」 まだ午前中だというのに、既にどこか疲れた雰囲気の滲む中年の男の声がリスルを呼んだ。彼女は振り返り、太陽のような金髪に夏の青空のような双眸の男――ラルゴの姿を認めると、嘆息混じりに、 「……まったく。父さん、カロンのこと、甘やかしたくなるのはわかるけど、後でしんどい思いをするのはあの子なのよ? あんまり無責任に甘やかさないでよね。だから母さんに怒られ」 呆れたふうにつらつらと言葉を並べていく娘に、辟易したようにラルゴはストップ、と制止をかける。困ったように無精髭の散った頬をぽりぽりと指先で掻きながら、 「……リスルはだんだん母さんに似てくるなあ……。全く同じことをさっきも母さんに言われたばかりだから勘弁……」 「仕方ないわね……」 リスルは嘆息し、肩をすくめると、 「父さん、それはそうとハンスさんのところに行かないと。早く行ってこないとお昼になっちゃうわ」 おう、とラルゴが頷いた。リスルはラルゴを伴って玄関を出る。ちょっと出かけてくるー、という具体性に欠ける内容の外出を告げる野太い声だけが誰もいないダイニングに残った。 出かける前に母屋の隣にあるこじんまりとした倉庫へ立ち寄ると、ラルゴは山のように葡萄の積まれた手押し車を引き出した。 「よし、行くか」 ラルゴの言葉にリスルは頷いた。彼は車輪が一つしかない少し不安定な車体を前に向けた。ゆさゆさと揺れるふくよかな腹の両サイドで金属の持ち手のグリップを掴み、彼はリスルの歩幅に合わせるように少しゆっくりと歩き出した。 真上よりもまだ少し東にいる太陽の下に伸びる田舎町の舗装されていない畦道は、しぶとい残暑でぎらついていた。木枯らしに吹かれて、色づいた木の葉がどこまでも高く青い秋の空に舞っていた。 イーシュは目の前に広がる記憶のままの風景に足を止める。紐で無造作に束ねた灰色の髪とグレンチェックのチェスターコートの裾が冷たい風で揺れる。 五年前の冬、リスルによって一命を取り留めたイーシュは、雪が溶け、花の蕾が綻び始める季節まで、この村に滞在していた。その間に、命を落としたリスルの葬儀を済ませ、村の復興作業へと彼は携わった。 それからというもの、イーシュはどうしてもこの村――ヴェレーンには足が向かないまま、国内を転々としていた。あの日、この村が山火事に巻き込まれたという負い目が彼の足をこの村から遠のかせた。 たまに立ち寄った町で日雇いの仕事をしては小銭を稼ぎ、その日暮らしを続けているうち、背も伸び、顔立ちも大人びて、イーシュは青年といっていい年になっていた。しかし、これから年を重ねて、あのころのリスルの年を追い越したとしても、到底彼女に追いつけるとも、彼女のようになれるとも思えなかった。 イーシュはキャメルのボストンバッグを持ち直すと、歩き始めた。時期が終わりに近づいてきた金木犀が風に乗ってふんわりと香ってくる。 すっかりあのころと変わらぬ景色を取り戻した村の中を懐かしさと鈍い胸の痛みを感じながら歩くうち、イーシュは比較的大きな一軒の家の前へと来ていた。以前、彼がこの村に滞在していたころ、一時期身を寄せていた村長の家だった。庭先ではまだ少し時期が早いはずの花の蕾が綻び、甘やかだけれどほんのりとスモーキーな色を覗かせていた。その花を見るとどうしても、もうこの世にはいない女性のことを思い起こしてしまい、イーシュは少し苦しくなる。 イーシュは扉をノックしようとして、躊躇った。悴んだ手が行き場をなくして彷徨う。 あの翌年の春に、自分の中でいろいろなことに半ば無理矢理区切りをつけてこの村を発つときに、いつでもまた訪ねてきてほしいとは言われてはいた。けれど、イーシュはそんな社交辞令を鵜呑みにして、招かれざる客が何をしにまたこの村を訪れたのかと、この家に住まう人々の表情が歪むのを見たくはなかった。 「あら、あなた、どこかで……?」 背後から年老いた女性に声をかけられ、イーシュは振り返る。草花をあしらった深緑のショールを肩に纏った小柄な老女が口元を押さえてこちらを
街道を馬車が走っていた。西へと続くこの街道の先には、宗教都市レシェールがある。 灰色の空からこぼれ落ちてくる花の霙を窓越しに何とはなしにスフェルが眺めていると、彼の向かい側に座るセイランが声をかける。 「スフェル殿下、もうすぐレシェールに着きます。しかし、本当によろしかったのですか? 王族ともあろう殿下の供が私一人で。このように少人数での視察など……有り体にいえば教会関係者にナメてかかられます」 「そう言うから、お前を連れてきたし、馬車での旅にすることを了承したではないか。本来なら、私が単身、オリーブで訪問すれば事足りることだというのに」 己の従者の諫言に、スフェルは嘆息まじりにそう返す。セイランは溜め息をつきたいのはこっちだと胸中で思いながら、 「殿下はあまりにも王族の威厳や形式というものを軽んじすぎです。こうした少人数での電撃訪問で教会側の意表を突き、取り繕う暇を与えないようにするという殿下の意図はわからないわけではないですが……。ですが、せめて身の回りの世話をする侍女の一人くらいはお連れください」 「子供ではないのだから身の回りのことくらい、自分でできる。それに、私にはお前がいるのだから、何も問題はないだろう? 私の側には信頼できる者だけがいればそれでいい」 「でしたら、いい加減エミルを殿下の侍女として召し抱えられたらいかがです? 彼女であれば、書類上は我が家の末席に連なる身分ですから、誰にとやかく言われる心配もありませんし、何より殿下を裏切ることは絶対にありませんから」 スフェルは窓の外の空と同じように表情を曇らせる。ヘーゼルの双眸に物憂げな色を浮かべると、 「私の都合で、あの子の人生をこれ以上掻き乱すことがあってはならないだろう。あの子は窮屈な城よりも市井で穏やかに生きるべきだし、今回のような視察に同行させればあの子の身が危険に晒されかねない。それに、一度あの子には私のそばで働くことを断られているから、しつこく誘うつもりはない」 「要はエミルに嫌われたくないというだけの女々しい理由でしょうに……まったく、殿下は年ごろの娘に嫌われたくない父親か何かですか?」 「……そういうつもりはないのだが」 「常々申し上げておりますが、殿下はエミルに入れ込み過ぎです。それに、以前に殿下がエミルに城で働くように勧めたのは出会って間もないころ
炎の波の中で壁が建物の焼け残った骨組みが黒々とその姿を浮かび上がらせていた。瓦礫が赤い光をちらつかせながら地面に折り重なっている。その様はさながら廃墟のようで不気味さを感じさせた。 イーシュは逃げ遅れた人がいないか確認しながら、崩れかけた建物を周っていた。まとわりついてくる空気が熱い。喉の粘膜を焼かれないようにイーシュは外套の袖口で鼻と口を覆う。 いつ崩れてくるともしれない、瓦礫と化した建物の残骸をイーシュは慎重に調べていく。先程も、柱を失った家の梁が落下してきて、消火活動の指揮を取っていた村長が頭を負傷し、運ばれていったのを見た。 近くから誰かの呻き声を聞いた気がして、イーシュは辺りを見回した。積み重なって倒れた家の柱の下から赤く焼け爛れた小さな人の手がのぞいていた。 「大丈夫ですか!」 イーシュは轟々と炎を上げる建物へと駆け寄り、柱の木材を押し上げようとした。焼けて炭になり始めているとはいえ、成長途中の少年が動かすにはそれは重過ぎた。べろりと手のひらの皮膚が剥ける。 小さく切れば動かすことができるかもしれないと、イーシュは思った。何かを切るにはお誂え向きの力が自分にはある。問題は自分がそれを一人で制御しきれるかどうかだった。 しかし、迷っているだけの余裕はない。イーシュ一人でもどうにか力を使いこなすしかなかった。失敗して力を暴走させてしまったらだとか、間違って下にいる人ごと切ってしまったらなどと躊躇してはいられなかった。 イーシュは目を閉じ、腹に力を込めた。意識を集中させ、鋼でできた花を思い描く。幸い、先程のロイゼン山での感覚はまだ覚えている。 体の中を背骨に沿ってせり上がってくる力の感覚を右腕へと誘導する。イーシュは琥珀色に光る目を見開くと、わずかに力を解放し、指先に鈍色の花を咲かせた。 イーシュは、鋼の花びらを太い木材にあてがい、慎重に切っていく。 額に汗が滲んだ。集中力が途切れれば、切ってはいけないものまで切ってしまいそうだった。 気道を焼かれたのか、喉がひどく痛かった。しかし、イーシュは手を動かすことをやめない。煙にやられて目も痛かった。しかし、今はそんな些事に構ってはいられない。 木材を小さく切り終え、イーシュは解放していた力を自らの中へ収めた。双眸が元の焦茶色へと戻っていく。 能力の行使で疲弊
煤と泥にまみれた二人がヴェレーンに戻ると、村はめらめらと揺らめく炎に包まれていた。夜と朝の狭間の色に染まった空とは対照的な色に照らされて浮かび上がる景色は、二人が覚えている平和な村からは遠くかけ離れていた。 記憶の中のトラウマを想起して、リスルは慄然として一瞬その場で立ちすくんだ。 「炎が……」 リスルは口の中でそう呟いた。自分が引き起こしたということが共通している目の前の事態は、全てを失った娘時代の晩夏の夜を連想するのには充分すぎた。 ほんの一度、季節が移ろうだけの短い間だったとはいえ、身を寄せ、世話になったこの村をリスルは故郷の二の舞にはしたくなかった。 しかし、長年使い続けた《レーヴェン・スルス》の影響を受けて弱りきっている上に、疲労で万全には程遠い今の体調では《ヴィサス・ヴァルテン》の力を使って消火を試みるのは危険だった。先程、ロイゼン山で力を扱い切れずに暴走させてしまっている以上、ここでまた同じことが起きないとも限らない。焦る気持ちを押さえようとしながら、リスルは何かできることはないかと考え続ける。 「……神父様」 リスルの様子を何もいえないまま気遣わしげに見ていたイーシュは人の気配を感じて振り返る。煤けた法衣に身を包んだ人の良さそうなその人は、イーシュ君と彼の名を呼ぶと、苦い笑みを浮かべる。 「こうなるような気はしていましたが……どうして戻ってきてしまったのですか。先程、忠告はしたはずですよ」 「だって……わたしのせいですから。わたしがもっとしっかり力を扱えていればこんなことには……」 蚊の中ような声でリスルは答え、俯いた。茶色い巻毛が彼女の横顔に浮かんだ表情を隠した。 どういうことですか、とレイモンはイーシュに目配せした。イーシュは泥にまみれたブーツの先で背伸びをして、レイモンへと耳打ちした。 「さっき、リスルさんが山で力を使って山火事の状況を探ろうとしたときに力を暴発させてしまって……。どうにも異能の影響で体調がよくないみたいで、力を扱い切れなかったみたいなんです。それで、そのときに発生した強風で村の方に炎が流されてしまって……」 なるほど、話はわかりましたとレイモンは頷いた。そして、彼は身を屈めて俯くリスルと目線の高さを合わせると穏やかにいう。 「シスター・リスル。あなたがすべてを背負い込む必要はあり
先を行くリスルに追いついたイーシュは、彼女と共に雪の積もった山道を歩いていた。辺りには煙が立ち込めていて、すぐそばにいるはずのリスルの姿さえも見失ってしまいそうなほどに視界が悪い。煙が目に染みて痛い。 リスルは辺りを探るようにしながら、慎重に歩みを進めていた。彼女は記憶の中の地図の情報を引っ張り出して、 「もう少し北寄りに進めば、崖になっていたはず。作業をするなら、たぶんそっちのほうがいいわね。元々燃えるものが少ないから、作業量を抑えられるわ」 方角すら怪しい中、二人はブーツの底で雪を踏みしめながら歩く。今の状況では、すぐにうっかり獣道へ迷い込んでしまう。 ふいにイーシュは体勢を崩し、足元を滑らせた。それまで立っていた場所の雪が崩れ、下へと落ちていく。咄嗟に持っていたシャベルを地面に突き立てたが、体重に耐えられずに傾いでいく。 「あっ」 声を上げたイーシュへとリスルの手が伸びてきて、腕を掴んだ。 「イーシュ、大丈夫?」 そういって引き上げてくれたリスルの腕は若い女性のものらしく華奢だった。イーシュは己を情けなく思いつつも、その腕に縋りながら這い上がる。 「ごめんなさい、わたしのミスね。思ってたよりもだいぶ進んでいたみたい」 「いえ……俺も注意不足だったので……。 ところで、ここが崖になっているってことはリスルさんが目指してたのはここですか?」 「そうみたいね。イーシュ、大丈夫そうなら、その辺りからずっと一直線に地面を掘って、溝を作ってくれる? わたしはこの辺りの木を切り倒すわ」 足元には気をつけてね、とイーシュへ注意を促すと、リスルは持ってきた斧の柄を両手で握り、振り上げようとする。しかし、気迫だけはそれっぽい感じを漂わせているが、姿勢がおかしいのかどことなく腰が引けている。生い茂る木々はどれも太く高かった。イーシュは何回目になるかわからないが、あまりにも無謀なことをしようとしていると思いが脳裏をよぎり、つい口を挟んでしまう。 「あの……リスルさん、斧を使ったことは……?」 「昔、教会の追手から逃げるときに投げつけてやったことならあるけれど……本来の使い方をしたことはないわね。それでもまあ、どうにかするわ。どうにかするしかないんだもの」 「無謀です……」 イーシュは半眼でリスルを見やりつつ、嘆息した。妙に気迫だけ
リスルとイーシュが湖畔の風車小屋に逃れてから三日が過ぎた。 肩から毛布を被り、椅子で眠っていたリスルは、明け方、イーシュによって揺り起こされた。 「リスルさん、起きてください。外が大変なことに……」 「ん……ふぁ……どうしたの、イーシュ」 眠い目を擦り、欠伸を噛み殺した間延びした声でリスルが応えると、イーシュは血相を変えて畳みかけた。 「外を見ればわかります! 山が燃えて……!」 山が燃えている。その言葉に反応して、リスルは完全に覚醒した。彼女は両頬を叩き、真顔になると立ち上がる。被っていた毛布を床に脱ぎ捨てると、彼女はイーシュに引っ張られるようにして小屋の外へ出た。 まだ夜の気配が色濃く残る暁の空の下、ヴェレーン村の向こう側にあるロイゼン山が赤く燃えていた。少女時代のトラウマを刺激され、リスルは口元を押さえて立ちすくむ。何とか絞り出した声も意味のない音にとなり、白い吐息と共に空気中へ霧散していく。 「な……」 山火事が起きていた。風向きが悪く、ヴェレーンへと炎が降りてくるのも時間の問題だった。 これに関われば自分はきっと、生きて朝日を見ることはないだろう。何となくそんな予感がした。 けれど、これは自分たちが招いた結果だ。リスルは我が身可愛さにこのままこの地を離れることなどできなかった。 「ロイゼン山へ行くわ。イーシュはここにいて」 ロイゼン山のある南西の方角へ走り出そうとするリスルをイーシュはその腕を掴んで止める。 「やめてください、危ないです。そもそも行って何をするつもりなんですか」 「わたしにできることをするの。《ヴィサス・ヴァルテン》の力をもってすれば、直接的な鎮火はできなくても、燃え広がる方向を変えることくらいはできるわ。緩衝帯を用意してそっちに炎を誘導してやれば……」 リスルは一人で木を切り倒して燃えるものを無くし、地面を掘って溝をつくることで延焼を食い止めるつもりだった。リスルがそれをイーシュに話すと、彼は首を大きく横に振った。 「無理ですよ! リスルさん一人でできることじゃないですよ! いくら異能があるっていったって、それ以外はリスルさんは普通の女の人じゃないですか! 無謀です!」 「無理でも無謀でもやらなきゃいけないの。これ以上、あの村に迷惑はかけられないもの。 イーシュ、気付いている?







